令和7(2025)年3月30日 教授者会講演会報告

「蒔絵とは」漆芸家 久世尚可先生

 久世先生は、愛知県一色町のお生まれで、大学で木工・漆を学び、現在、高山在住の漆芸家です。「蒔絵」は、日本の伝統工芸として象徴的なもので、漆で絵を描き、漆が固まらないうちに金や銀などの金属の粉を蒔いて装飾する漆工芸の代表的な加飾技法の一つというお話から始まりました。漆は、ウルシ科ウルシ属の落葉樹から採取した樹液でウルシオール主成分とする天然樹脂塗料、接着剤として使われているものだそうです。

 続いて、「蒔絵の変遷」、「蒔絵の技法・種類」のお話がありました。漆を塗った出土品は、縄文時代までさかのぼりますが、蒔絵は、奈良時代、正倉院御物の太刀に施されたものが始まりと言われているようです。平安時代になると宗教工芸として経箱、逗子などに蒔絵が施されるようになります。鎌倉~安土桃山時代は、蒔絵の新しい技法が出現し、蒔絵の技術が受け継がれ発展していく時代でした。江戸時代初期は、武家社会で調度品。文具、印籠などに贅を尽くした蒔絵が施されました。巧みな技巧を駆使した徳川家の「初音の調度」は代表されるものです。江戸時代中期以降は、蒔絵の支援者は富裕層の商人や町人に移行していきます。かんざし、キセルなど日常生活で使われる塗物に描かれるようになりました。また、本阿弥光悦などの個人名の残る作家が現れてきます。江戸時代後期になりますと、長崎の出島から東インド会社を通して「紅毛漆器」と呼ばれる漆器がヨーロッパ向けに輸出されていきました。明治維新により、武家社会が崩壊すると武具や馬具の蒔絵はなくなり、江戸後期よりの輸出用の漆器は、パリ、ウイーン万博で称賛され、ヨーロッパでのジャポニズムの流行により外貨獲得のための政府の支援を受け、輸出用の漆器が多く生産されました。戦後、昭和の高度成長期になると、漆器の製造販売が盛んになり、伝統的、古典的なデザインの贅を尽くした蒔絵が現れてきました。

 現在は、従来の木製素地に漆を塗り金属の粉をまく蒔絵も、蒔絵シール、蒔絵風印刷も同様に「蒔絵」と称されますが、内容的には相当の違いがあります。

 今回の講演には蒔絵に使う材料の金粉や薄く剥いだ螺鈿、蒔絵筆や粉筒などの道具類、銀地、梨地、平目地の見本、さらには蒔絵の製作手順の見本など興味をそそられる展示が用意されていました。

 また現在、「大阪関西万博」が開かれていますが1900年のパリ万博において、漆をはじめとする古い歴史を持つ伝統的な日本文化を世界に知らしめることに貢献していたことをお聞きし、「蒔絵」の講演内容が時を得た内容であったことと企画をされたお家元に感謝する次第です。                  

尾張地区 神谷淑仙窟

冬の旅 京都 令和7年2月11日「對龍山荘」「無鄰菴」「黒田辰秋展」

修士論文が落ち着いた2月、日本庭園と黒田辰秋について学ぶため、奥様と名工大修士2年の3人で京都旅行に行きました。

對龍山荘は、南禅寺の塔頭跡地に明治29~32年(1896~1899)にかけて造園された伊集院兼常の別荘でした。その後、彦根出身の呉服商・市田弥一郎が譲り受け、庭園・建物共に大規模な改修が行われました。これまで非公開でしたが、現所有者である似鳥昭雄会長の熱意により、2024年秋から自由見学の庭園一般公開が開始され、2025年1月15日から建物も自由見学ができるようになりました。

對龍山荘の庭園の設計は、近代日本庭園の先駆者と称えられた七代目小川治兵衛(植治)でした。約1800坪からなる広大な敷地内に池や流れ、露地、滝石組、芝生広場が設けられています。斜めに曲げられ動線上に伸びた松は、くぐり抜ける際には場面転換、眺める際には景色に奥行をつくる演出としての効果を持つそうです。

また、建築は当時随一といわれた大工・島田藤吉によるもので、2024年に国の重要文化財に指定されました。對龍台と名付けられた池に張り出すような形で作られた一室では、軒の深さや川の流れの音など、室内にいる人の五感を使うことで、背後に広がる東山を借景とした奥行きのある庭園の景色と建築を繋げる工夫が見られました。

毎日手入れされた庭園は、寒波の影響を受けても美しく、再度訪れて、様々な季節による一面を見てみたいと思わせるものでした。

萩原裕佳識

 無鄰菴は京都市左京区の所謂”南禅寺界隈”と呼ばれる別荘の一つで、山縣有朋の旧別邸です。無鄰菴の”鄰”という漢字は、”隣”という漢字の偏と旁を反対にしたもので、元々中国から伝わって来た時は”鄰”で、いつの間にか日本で”隣”になったそうです。つまり無鄰菴とは、”隣に何も無いほど閑静な草庵”という意味だそうです。実は現在の無鄰菴は三代目で、初代の無鄰菴は山縣の故郷、下関の田舎にあったためにこのような名前になったと言われています。現在もこの名前を使っているということは、山縣が余程この名前を気に入っていたということです。

 無鄰菴は庭園、母屋、洋館、茶室で構成され、明治27(1894)年から明治29(1896)年の3年にわたって造られました。特に庭園は、南禅寺界隈で多くの作品を残した7代目小川治兵衛、通称”植治”に作庭されたものです。それまでの、池を海に、石組を島に喩えたり、蓬莱山や須弥山に喩える思想を含んでいたりする庭園とは違い、自然の風景をそのまま原寸大で写したような庭園になっています。これが山縣の要望で、その指示を受けて小川治兵衛が作庭しました。このように近代的で、庭園において新しい価値観を取り入れたことが評価され、国の名勝として文化財に指定されています。

 庭園の形式としては、池泉回遊式で、実際に決められたルートを歩き、一番奥の三段の滝まで行くことができます。まず母屋から庭を眺めると、その奥に借景として東山三十六峰が見えます。手前に見える築山と、奥に見える東山は庭に遠近感をもたらしています。そして園内を歩くと、クチナシの実が随所でみられました。初夏には園いっぱいに良い香りが漂うのだろうと想像できます。クチナシの実は黄色の染料や漢方薬として用いるそうです。

 また、その庭園の中に立つ洋館は、明治36(1936)年に山縣有朋、伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎が集まり行われた無鄰菴会議に使われた洋室があります。洋館は煉瓦造りで、一階部分は煉瓦が剥き出しになっています。扉は蔵のような厚い造りになっており、ここからは会議が行われたとは想像もつきません。しかし、二階に上がると一変し、西洋の家具でしつらえた近代的で華やかな空間になっています。金箔の上に描かれた壁画や、折上格天井などは日本の御殿建築のようで、和洋折衷形式の、重要な会議にふさわしい洋室でした。

 無鄰菴では、山縣有朋の庭に対する思いや、歴史的に重要な出来事の一端を感じることができ、心の浄化される経験となりました。

渡邉梨央奈識

続いて、京都国立近代美術館で開催中の『生誕一二〇年 人間国宝 黒田辰秋-木と漆と螺鈿の旅-』を訪ねました。黒田辰秋は、戦後の日本美術界において革新的な表現を追求し、昭和45(1970)年には木工芸の分野において初めてとなる重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました、日本を代表する木漆工芸家です。河井寬次郎を介して柳宗悦と出会い、その思想に共鳴して上賀茂民藝協團に参加し、民藝運動の一翼を担いました。さらに、川端康成、志賀直哉、白洲正子、武者小路実篤といった文化人との交友も、黒田の創作活動に大きな影響を与えました。

彼の制作の特徴として、図面作成から木の加工、漆塗り、さらには金物作成まで一貫して自身で行うことがあげられます。素材の持つ魅力を引き出した彼の作品性の高さは、分業制が一般であった当時、とくに注目を集めたでしょう。

本展では、彼の代表作をはじめ、制作過程を垣間見ることができるスケッチや、これまであまり公開されなかった資料などが収録され、黒田の創作活動の軌跡が余すところなく紹介されていました。とくに木目の映える木工芸、艶やかな塗り、曲線や捻りが生み出す大胆な造形の拭漆や、耀貝(メキシコ鮑)をもちいた螺鈿などは息をのむような麗しさでした。

また、京都国立近代美術館自体も、伝統と現代性が調和するデザインが印象的で、作品の魅力を一層引き立てていました。

その後、東華菜館にて黒田辰秋展を担当されました学芸員の方にお話をお伺いしました。展示を企画するにあたり、ディスプレイの配置や照明計画を工夫し観者の視線を誘導することで、作品の魅力をより引き立たせていることを知り、お茶席の室礼に通じるものを感じました。

植治の庭や黒田辰秋展を通じて、心に訴えかけてくる美しさは、職人の緻密な計画と精巧な技術の結晶であることを再認識する旅となりました。

浅田慎伍識

令和5年3月26日教授者会講演「煎茶と茶の湯における青銅器と文人趣味」愛知県陶磁美術館学芸員 田畑潤(卣仙窟)氏

 今回は、「煎茶と茶の湯における青銅器と文人趣味」と題して、以下の項目でのお話でした。
 青銅器に造詣の深い田畑氏のご講演を十分咀嚼できないままですが以下の3つにまとめてみました。
1,青銅器とは
2,茶の湯における青銅器
3,煎茶における青銅器


1,青銅器とは
 青銅器は、銅と錫と亜鉛の合金で錫の割合が5~15%できたてのものは黄金色に輝いており、錫の割合が増えるにしたがって融点は低くなり、固さは柔らかくなり色は赤っぽい色から黄金色さらに白銀色に変化します。
 殷周時代BC16~8世紀に食器(鼎)、酒器(尊)、水器(卣)として作られていました。
 特に周時代において青銅器は、祭器としての性格を強め器種構成や数量から身分秩序を示す指標として用いられるようになり、「古代銅器」として後世の宋代の科挙の合格者である身分の高い人々が憧れをもつようになったといわれています。
 さらに時代を経て宋代以降、仏具としての役割が与えられ紋様には仏教や道教由来のものがほどこされた「倣古銅器」が出現し、そこから派生したものが日本にも輸入され、仏具や茶道具として用いられました。


2,茶の湯における青銅器
 桃山時代に古代の青銅器を倣った香炉や花器が使われています。
 留学僧により中国の宋代に使われていた青銅器の仏具として香炉、花入、燭台の三具足が元(1260~1368)より持ち込まれ、茶の湯の席に使われていました。
 茶の湯における銅器は、日本に渡来した時代から見ても、殷周時代の青銅器ではなく装飾性の少ない青銅器でした。


3,煎茶における青銅器
江戸時代後期、幕末に始まり明治時代に隆盛した茗讌図録から中国古銅器、とりわけ殷周青銅器を煎茶飾りとして用いたことが知られています。
 明治に入ると山中吉郎兵衛(箺篁)、住友吉左衛門(春翠)らによる青湾茶会の茗讌図録に取り上げられています。
 殷周青銅器など中国一級の文物が流出するきっかけとなったのは、中国清朝末期の1900(明治33)義和団の乱と辛亥革命(1911)により清朝の秘宝が略奪、接収され、諸外国に流出されていきました。


 「古代銅器」として後世の科挙の合格者である身分の高い人々が憧れを持っていた殷周時代の青銅器が日本に渡来し、中国文化を色濃く受け継いでいる煎茶の世界に取り入れられ、本来の祭器としての用途から離れて火炉、香炉、花器として煎茶席に飾られるようになったと思われます。
 「茶の湯」で使われている青銅器と「煎茶」で使われている青銅器の違いを伝来した時代背景を踏まえた興味深い講演でした。

尾張地区 神谷淑仙窟

冬の旅 京都 令和5年2月16日「平安神宮」、「白沙村莊(橋本関雪記念館)」

 コロナ感染者数も少し落ち着いた2月、混雑を避けて観光客の比較的少ないこの時期に京都に出かけました。いつものお稽古の方々4人で出かけた京都の旅でした。

 平安神宮は、平安遷都1100年を記念して開催された内国勧業博覧会の目玉として平安京内裏の正庁である朝堂院を模し実物の八分の五の規模で建てられました。平安遷都(794)を行った桓武天皇を祭神とする明治28年(1895)に創建され、昭和5年には、平安京最後の天皇である孝明天皇が合祀されている神社です。

 今回は神苑を中心に見学をしました。神苑は、日本の造園技術を結集した東、中、西。南庭園からなる約1000坪の広大な池泉式回遊庭園で、明治の造園家七代小川治兵衛により作庭されたものです。
 池泉式回遊庭園は、大きな池を中心に配し周囲に園路を巡らし、築山や池の中に設けた小島、橋、名石などで景勝地を再現し、園路に休憩所や展望所、東屋などを配した伝統的な庭園様式です。広い園内の途中にあらわれる渓谷の水音は深山の情景を思い起こさせ楽しませてくれます。水は琵琶湖疎水から引き入れており、琵琶湖の在来種のイチモンジタナゴが生存しているとのことです。

 この時期の庭園は、梅が咲き始めたばかりで、少し寂しい庭園でしたがよく手入れをされた庭は、前日の寒波の余波もあってかいっそう身の引き締まる心地でした。季節によりさまざまな姿を見せる自然美の情景は、折々に味わうことのできるお庭であると思いました。 


 続いて、白沙村莊(橋本関雪記念館)を訪ねました。橋本関雪(1883~1945)は父から幼少期に漢詩や書画を学んだ和魂漢才の日本画家で、1934(昭和9)帝室技芸員に選出されました。白沙村莊は、1916(大正5)、アトリエとして造営した邸宅です。約3000坪の敷地の建物と庭を自身で設計したといわれています。
 建物は母屋と「存古楼」と名付けた屏風絵の製作を行っていた画室などがあり、池泉回遊式庭園で三室の茶室群や持仏堂が存在し、2014年には二階建ての美術館が新たに開館し、関雪の作品や蒐集品が展示されていました。

 展示品の中に煎茶道具があったことをお伝えします。また、二階の展望テラスから間近に大文字山を借景としてながめることができました。なお、庭園は2003年(令和15)文化庁の史跡名勝天然記念物に指定されています。美しい鴨のつがいが静かに池で翼を休めており、まちなかの緑地が野生の鳥たちのくつろぎの場所にもなっていることがわかりました。
 併設されたレストラン(昭和初期の洋館)で庭を歩き廻って冷えた体を温めながらゆっくりと昼食をとり記念館を後にしました。

 今回の見学は、「平安神宮」、「白沙村莊」ともに明治以降のものですが、伝統的な庭園を作庭するに当たり琵琶湖疎水の水を導入していることに意味があることに気が付きました。琵琶湖疎水は東京に遷都された京都を活性化するために琵琶湖と宇治川を結び京都の産業を振興しようとした一大事業でした。
 明治24 年、疎水の水を使った水力発電の稼働をはじめとして、飲料水や工業用水として現在も利用されており、明治27年に完成されたものです。新しい社会インフラの事業と伝統的な文化(造園技術)が連携して新しい京都を作ろうとした思いが込められていると知らされた旅でした。

売茶流尾張地区 神谷淑仙窟

平安神宮

白沙村莊

令和4年9月4日教授者会

今回初めて、立礼で大盆玉露のお点前をさせていただきました。
 教授者会ならではの特別な空気感のもと、お席入りから始まりました。たくさんの教授者の先生方が参加されるなか、カメラが回り、緊張は極限です。
 まずはご挨拶、扇子の位置、お床の拝見、間合いなど、立ち居振る舞いにあわせて、丁寧な解説があります。
 次に、テーブルと椅子掛けならではの所作、足の運び、お茶やお菓子の位置など、心を配り、細かく学びます。
 お点前を通して、心づかいやおもいやりは、どんな場面でも大事なことと教えていただきました。
 この教授者会は、早くから会場だけでなくzoom同時配信が行われてきました。遠方の先生方も参加でき、とても有意義です。
 煎茶の文化、そして、続く道。畳に座っていることが辛い方、普段は正座をされない方も、ご一緒に煎茶道を楽しんでいきたいです。
                           名古屋地区 伊藤文仙窟


「常滑急須の源流をひもとく」ー足利家茶瓶四十三品図録を中心に ー
講演 とこなめ陶の森 学芸員 小栗康寛 

 年に何回か開催される教授者会は、お聞きしていて理解できないところも少なくないのですが 、私にとって煎茶の世界が広がっていく楽しい時間です。
 今回は、「常滑急須の源流をひもとく ―足利家茶瓶四十三品図録を中心として―」と題しての講演でした。そもそも「足利家茶瓶四十三品図録」とは何かというお話から始まりました。室町時代の文化 に造詣の深かった第8代将軍足利義政(1436~1490、在位1449~1474)収蔵の43種類の急須が収録 されている図録とのことです。 常滑の急須生産の始まりは、江戸時代の「知多名所図会」(1844)にみられます。また常滑 町史 (1931)によれば第二代稲葉高道(1800~1868)が駿河の国より「足利家茶瓶四十三品図録」 の古写本を持ち帰ったことの始まります。しかしながら義政の時代は急須が使われていたとは考 えられずこの写本については今後の研究を待つ必要があるとのことでした。
 いずれにしても江戸時代の終わりから明治にかけて常滑の熱心な陶工により、図録茶瓶の写し の横手の急須が数多く生産されるようになりました。この時代は煎茶が世に広がり、江戸、京都 大阪の文人が注目していた湯沸かし、酒器をルーツにした直接火にかける茶瓶を作る技術を磨い ていったと思われます。江戸の長い鎖国政策のもとで、中国へのあこがれから火にかけられる、白泥、朱泥の土を使った茶瓶(急須)が作られるようになったものです。  

尾張支部 神谷淑仙窟